
世界がもし100人の村だったらと言う考え方(或は文章)の中に僕達が直面している多くの問題の解決への方法を考えるヒントが有ると思う。具体的流布されている文章云々では無く考え方の問題として大切にしなければならないのだ。見えない問題を実感する為に。
環境の問題も同様だ、問題だ問題だと騒ぐが実感は有るだろうか?
例えば、登山をしない人には判らないかも知れないが、山小屋が僕達の生活する都市や地域の現実を考えさせてくれる。
稜線上に建つ山小屋には水源が無い、天水を集めた物を濾過して使用するか、遥か下方の沢から細いゴムホースでチョロチョロと少しずつ汲み上げるしかない。だから小屋の脇に設置されたタンクや雨樋からの集水装置を見ると、水を一滴も無駄に出来なくなってしまう。
屋根に設置されたソーラーパネルや、小さな風力発電機、それらを蓄電する簡素なシステムを目の当りにすると、夜更かししてテレビ等見る事が如何に代償に見合わない愚行で有るかと考えてしまう。
そうだ、さっさと寝てしまう事が健康にも環境にも社会にも良い事なのだ。
食品の包装やビンやカン等のゴミを自分で背負って何時間も歩いて帰る事を考えてご覧、こんな無意味は無い筈だ。こういったゴミや糞尿等の汚物はコンテナに移し替えてヘリコプターで山から降ろしている。
そしてその作業は過酷で危険だ。そう思うとゴミばかり出る過剰包装は本当に罪深い事だと思う。
トイレは我慢出来ないけど、本当ならば糞尿だってプラスチックの袋に入れて各自持ち帰らなければならないのかも知れない。
そしてこれは山小屋の話だが、実は東京の街だって基本的には同じなのだ。
君の家から出る量のゴミを皆が出す、是等は煙となって消える訳ではない、電気も水も何かを消費している事に変わりはない。
僕達は、東京と言う巨大な山小屋の住人なのだ。