2007年12月31日月曜日

Essence,The Gospel According to St. Mark,Piazza San Marco Venezia


今年一年を象徴する一文字は「」だそうだ。
偽りや裏切りに社会が翻弄されたと言うわけだけれど、僕達はいったい何を信じ、何を期待していたのだろう?
互いに信じ合い生きていくにはお互いに共有できる軌範が必要だが、僕達は自分自身で見て感じて考える事無く、盲目的に法律や常識が共通の軌範となって信頼に答えてくれると思い込んでいる様に感じる。
だが共有すべき事柄の本質は何処にあるのだろう、僕達が見聞きする情報は殆どが経済活動の活性化を誘導する目的を孕んだ物で、本質的生活の豊かさに向かわない。
新しい幸せの形を呈示すると見せかけて、時代に左右されない幸せの形を歪めていないだろうか?
食品の基準を偽装する事を弁護できないが、漫然と何かを信じ、漫然と生活する僕達は何処へむかっているのだろう。
昔は特別な公共の場所にしか無かった様な巨大なテレビジョンやハイビジョン装置、それが家族の幸せをより高める物の様に、あらゆるメディアは強引に訴える。そんな物の無かった頃のほうが余程、幸せを感じる機会は有った筈だ。
僕の知人は、二人の小さな娘にテレビも雑誌も見せないそうだ、語り合ったり一緒に楽器を演奏したりしてい過ごしているのでそういう物を見る暇が無いそうだ。
従って、本当に必要であると感じる物意外は欲しくもならない、本当にしたいと思うこと意外はしたくならない。
これからの僕達に欠かせない物、それは他人と比べる事で価値を感じるのではない、自分自身の本質的幸せの形、そして其れを求める強い意志だと、裏切られたと叫ぶより信頼に答えることを自分自身に問う事だと、私自身に言い聞かせている。
自分自身の幸せの本質は、誰から与えられる事でもない、

2007年12月25日火曜日

TheTwilight Samurai,Amsterdam


劇場に足を運べず観る機会を逸していた「武士の一分」と言う映画をやっと自宅で観る事が出来た。この素晴らしい映画を評論する必要など無いのだが、振り返って僕達は、譲れない一分、死んでも通さなければ為らない一分、を持っているだろうか?と考える。
人間としての一分、を捨ててシステムの中で生き残るだけの人生に為ってはいないだろうか?
武士の一分と言うほどの事ではないが、お金を貰っても引き受けたくない様な仕事はお断りする事も在るが、そんな時、相手の方はかなり驚いた様な態度を見せる事がある。
どうも彼らは、経済活動のイデオロギーどおりに事が進まない事を想定していないようだ。
給料を貰っている以上、上司の業務命令を断る事は考えられず、会社を去る事さえ選択肢として念頭にしていない彼らに、自分の信条で仕事や利益を丸々捨ててしまうような判断は信じられない事のようである。
だが、八百屋だって、魚屋だって肉やだって、自分達のプライドを傷つけるような客には「あんたに売る様な品物はないよ!けえってくれ!」と言えるのだ。
だから、互いに尊敬し尊重する社会の雰囲気が大切なのだと思う。
俺は客だぞ、金を欲しくないのか!的な態度が蔓延する今(そもそも、一般庶民が一寸所得が高い程度で、セレブリティを気取る等その最もたる部分だ)、お金ではない自分の一分こそが大切なのだな。
写真は、アムステルダム市内に貼られた「たそがれ清兵衛」のポスター、外国人には「ラストサムライ」等ではなく此方を観て頂きたいと切に願っている。

Couple of years ago, “Last Samurai” by Hollywood almost received Academy Award. The digest spoke highly of the movie on how it depicts the heart of Japan, yet I was very disappointed to see Hollywood-ized oriental warriors. It’s only a Japanese version of “Dances with Wolves”, Native Indians changed their leathers & feathers into kimonos & katanas. If you are in doubt, please watch “The Twilight Samurai”. A hero isn’t necessary a Shogun…

2007年12月22日土曜日

Silent Night,Paris


以前はクルシミマス等と駄洒落を言って喘ぎながら迎える事の多かったクリスマスも今年は、締め切りなどに悩まされる事無く静かに迎える事になりそうだ。
バブルの頃は過剰な忘年会が意味無く沢山在って、盛り場に行けば、酔ってドンチャン騒ぎに興じる人で溢れていた。道路工事の赤いパイロンを頭に被ったサンタクロースや、前後不覚の行き倒れトナカイ等も見掛けたものだ。
ロマンチックなクリスマスのイベント等殆ど経験した事の無い僕だけど、静かに家で家族と過ごす事が何よりだと思う様になったのは歳を取ったからだろうか。

2007年12月10日月曜日

Nation and a Citizen,Paris


毎日の報道を見聞きしどうしても納得出来ない事は多いのだが、薬害肝炎問題に関して思うと居た堪れない気持ちになる。
リストの放置問題に関して、厚労省調査チーム報告書の「反省すべきだが、責任があるとまでは言い切れない」、厚生省には法的責任は無かったとの内容に私は恐怖を感じる。
国家と国民の間に在る物は何であろうか?愛国心とは単なる趣味の問題ではない、国家とは私達の居場所であり、家であり、家族であり、相互に守るものである筈だ。だからこそ私達は、納税し、社会性を意識した行動を念頭に活動するのである。基本的理念として国家が、主権者である国民を守る前提を思えば法整備の問題で基本理念に背く等正に本末転倒以外の何者でもない。
そもそも法律とは何であろうか?
僕は法律とは基本理念に奉仕する物で無ければならない筈だと思っている。法律と理念どちらが優先すべき大切な事か比べるのも馬鹿げている。
ところが、実際には理念に背く、もっと言えば正義に背く者の、言い訳や逃げ道を作る為に法律が働くような事ばかりじゃないか。
社会はどんどん変化して行く、これからもずっと。
法律はその時代の後ろを遥か後ろからヨロヨロと不完全な様で追いかけて来る物に過ぎない。
だとするならば、法整備の遅れを逃げ道に正義に背く者の責任を不問にする様な悲劇をあらゆる分野で繰り返さなければならないのだろうか?僕達はそんな愚か者なのだろうか?
この様な薬害の問題を国家が国民に対しての基本理念を無視して法的な問題としてしか処理できないのならばとてもじゃないが税金なんか納められない。